歯医者の先生の、「次の方どうぞ」という声が、私には悪魔の囁きに聞こえました。

昔っから、歯医者さんってものは「痛い」のがあたりまえでして、もう医院の中に入ったら度胸を決めなきゃならい。ですが待合室で順番を待っていますと、治療室の方から歯を削る、なんとも嫌な音が聞こえてきまして、つい自分がやられてるような、何とも言えない妙な気持ちになるものです。帰りたくなっちゃう。

だけど今は違う。どこもかしこも「痛くない」治療というものを謳ってまして、歯を削るのも、神経を弄くるのも、これが不思議に痛くない。今はこうでなくっちゃ患者さんは来てくれないんです。とってもいいと思います。痛くない歯の治療。どうしてもっと早くからやってくれなかったんでしょうか。

虫歯に悩める十歳の頃、歯医者さんで嫌な体験をしました。私はもともと歯医者さんが大嫌いな、ごく普通の小学生です。ですから待合室にいる時間はまさに恐怖でした。あの時間がまた長い。たった三十分の待ち時間が、気持ちの上では一時間にも二時間にも感じられました。辛かったです。

そんなある日、私はいつものように待合室で順番が来るのを待っていました。棚の上に置いてある児童書を手に取りますが、どうも治療室の方が気になっちゃって、読む事もできない。しかたなく、室内に流されているラジオに耳を傾ける。ラジオから流れていたのは、子ども電話相談室でした。

治療室からは、これまたいつものごとく、あの歯を削る嫌な音が聞こえてきたのです。するとそのときです。「うーっ」おそらく患者さんの唸り声でしょう。何とも嫌な声が聞こえてきました。私は唖然とした。「大丈夫だよ、痛くないから」先生の声です。しかし、唸り声はまだまだ続きます。

そして、治療が終わり、唸り声をあげていた患者さんが治療室から出てきます。何とそれはいい年をした大人の男性でした。よく見ると泣いているようです。私は嫌な感じを受けました。「次の方どうぞ」奥から先生の声がします。私にはその声が悪魔の囁きに聞こえました。

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